28年前からの防災意識−ローリングストック法–

投稿するか迷ったが、近年南海トラフ巨大地震発生の確率が高まっているという情報を目にするようになり、あらためて自戒と備えを込めて。

28年前の1月17日の前日、16日夜19時くらいだったか自宅の2階に居たところ若干の地震の揺れを感じて、1階の家族に「今揺れたよね?」と確認に行くと「揺れたか?」と1階では分からない程の揺れだった様だった。(実際に地震があったか調べたが記録は確認できなかった)

当時の住まいは関西のとある地方だが、日頃からそこそこ地震のあるところだったのでいつもの感じの地震かなぁくらいで気にすることなくそのまま夜を過ごし就寝。

17日明け方、その頃父の出勤が平日は午前6時台と早かったので日頃の我が家の朝は5時台からけっこうドタバタしていて、自分は毎朝5時過ぎにたいてい一度は目が開いて、「今日もオトンら早いなぁ~」とウトウト微睡む感じの日々を過ごしていた。

当時大学4年生で既に卒業単位は取得していたので、あとは国家試験受験の科目1教科を一つ履修さえすればOKという状況で、日々アルバイトに明け暮れながら、就職先も一応決まっていてそこでの研修を控えていた頃だったと思う。

あの朝も「あぁ今日は午前からバイトやったかなぁ~」とウトウトしていると、最初遠くで「ドドド…」と地鳴りのような音が聞こえ始めたかと思うと次の瞬間「ドガガガガガガガガガガガ!!」とまるで体験したことのないような大きい揺れを感じて、

これはヤバい!!!と寝起きで方向感覚無い中、真っ暗な部屋でひとまず洋ダンスが倒れてくるのを避けようと反対側に立ったつもりでいた。

揺れが収まっていざ電灯を点けると、まさかの目の前に洋ダンスが…。反対側と思っていたら洋ダンス側に逃げていたことにあまりに驚いてビビッてしまった。もしタンスの中身が軽くて倒れてきていたら確実に負傷していただろうと。

本やビデオテープ類が散乱した部屋を後に、とりあえず1階へ降りると父が母の「あんた!水屋!」の声に反応して当時あった水屋タンスを必死の形相で押さえていた。また揺れるかもしれないという感じがあったからだ。

母は揺れてすぐガスの栓を閉めて次の揺れに備えている様子であった。この辺の母の落ち着きは静岡地方出身だったからか、日頃から地震に対しての心構えが高かった様で、若干オロオロ気味の父と対照的であったのを覚えている。

その後しばらくしてテレビを付けると、思っていた震源地とは違う神戸方面が震源地というニュースが流れていて、あの阪神高速が倒れている映像が飛び込んできて、「これは神戸の方むっちゃヤバいなぁ…」と茫然と流れてくる映像を見ていたのを覚えている。

結局その日は利用している交通網が復旧せずだったか止まったままでバイト先に行けないので休みますとの連絡を入れて、あとはひたすらテレビから流れてくる神戸周辺の映像をただただ見届けるしかなかった1日であったと記憶している。

神戸はもともと好きな街で、特に中華街がお気に入りで定期的に訪れては中華料理に舌鼓したり、民芸品を購入したりしていた。(カンフーシューズとかも買ったなぁ…。)そんな特別な街だった神戸がもう見たことのない有様になってしまって、

三宮でビルが倒れて道を塞いでいる映像が入ってきた時は「うそやろう…。」と固唾をのんで見ているしかなかった。

後日、大学から学部宛に復興ボランティアの募集があるのを知って、何となく何かせんとアカン!とボランティアに参加した。たしか西宮までは電車関係は動いていて、そこからバスでボランティア先まで移動したのだが、

道中の神戸の街の有様は未だに目に焼き付いている。当時好んでけっこうプリン食べていた製菓会社「モロゾフ」も社屋が被災してボロボロになっていたり、外車ディーラーの新車のベンツの上に瓦礫が乗っかっていてベンツが拉げてたり、

やけに平屋の家が多いなぁと思っていたら、実は木造の2階部分が残って1階部分が無くなっていたという事に後で気付いて驚愕したりと、もうほんと大きな怪獣がいたとして、そいつが街をなぎ倒していったような、そんな有様にただ息をのんで見つめていただけであった。

ボランティア先では救援物資の仕分け作業を朝から夕方まで手伝ったのだが、曲りなりにも福祉の勉強をしていた身で、何か被災した方々に直接関わらなくても良いのだろうか?とか他にできる事があるのではないか?等、仕分け作業をしながら悶々としていたように思う。

そしてちょっと空腹を覚えたとき、「あぁ、今日帰り金龍ラーメンでも食べて帰ろうか…。」とふと思ってしまった自分に対して、全然被災した方々や神戸が大変な事になっているのに、もうお前は何やねん!!と体験したことない程の自己嫌悪に陥ってしまい、

帰りのバスの中で自分が最悪すぎて吐きそうになったことが今も忘れられない…。その日、ほぼ被災していなかった大阪市内で金龍ラーメンは営業していたが食べる気にもなれずそのまま帰宅した。

あれから「防災」という事に意識が芽生えて、それなりにサバイバルグッズ的なものを集め出した。その後防災への意識が薄れそうになるとアメリカの9.11や東日本大震災を目の当たりにして、その都度有難くも防災への再確認をさせて頂くことに。

現在は家の各階に防災用品の入ったリュックサックや買い物カート、ミネラルウォーター等を常備し、食品類は「ローリングストック法」にて賞味期限が近づきそうになったら食べて買い替えるを繰り返している。(内閣府防災情報のページ

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